トルルルルルルルルル、トルルルルルルルルル…… 白い電話機が、無機質な呼び出し音を流し続けていた。 そろそろ美神や横島がやってこようかという時間の、美神の事務所である。いつもよ りも早く来て、隣の部屋で細々としているものの整理をしていたおキヌが、それを聞い て慌てて電話のある部屋にやってきた。もちろん、壁の中を通って、である。 トルルルルルルルルル…… 誰も取ってくれないのを怒るかのように、呼び出し音は抑揚のない音で鳴り続ける。 おキヌはいそいで受話器を手に取った。 「はい、こちら美神令子除霊事務所ですけど。あっ、美神さん」 『あ、おキヌちゃん……』 耳元で、美神の鼻に詰まったような声が聞こえた。咳き込む声が、それに続く。 「ど、どうしたんですか美神さん。風邪ですか?」 『どうもそうらしいのよ。で、悪いけど今日仕事休むから、横島くんにも言っておいて。 あと、しばらくどうなるかわかんないから、急ぎの仕事は待ってもらうか、他に頼むよ うお願いして。どっかから新しく仕事頼んできても、断っておいていいから』 時折くしゃみとせきの折り混ざった声が、受話器の向こう側から聞こえてくる。声に 出して確認しながら、おキヌはそれを手近な紙に簡単にメモしていった。 「他には、なにかありますか?」 おキヌが聞いた。その間にも、美神の咳き込む声が受話器から小さく漏れる。 『あ、風邪薬が切れちゃって困ってるのよ。よかったら持ってきてくれないかしら』 最後にそういい残して、美神は電話を切った。 「美神さん……大丈夫かな」 お大事に、と言って受話器を置いた後、おキヌは心配そうにつぶやいた。 ──滅多に体調を崩す人じゃないのに……。最近きつい仕事が続いていたから、無理 がかかったのかな。 「そうだ、横島さんに、お休みだって知らせておかないと……あ、でもこの時間じゃも う電車に乗ってこっちに向かってるかな」 おキヌは、ふたたび受話器を取りあげた。が、いくら呼び出し音が鳴っても横島が電 話に出る気配はなかった。 「ちょっと待ったら、横島さん事務所に出て来るよね」 そう考え直しておキヌが受話器を置いた途端、誰かが扉を開けて入ってくるのが見え た。 「おはようございま〜す」 元気に満ちあふれた声で挨拶をしながら現われたのは、横島だった。事務所の中をぐ るりと見渡すと、美神の姿がないのに気付いて、不思議そうにおキヌに聞いた。 「あれ? おキヌちゃん、美神さんは」 おキヌが、美神との電話でしたメモを見ながらそれに答えた。 「それが……どうやら風邪らしくて今日は休むそうです。新しい仕事の依頼があっても 断って欲しいって」 「へぇ、美神さんが仕事を断るなんて、よっぽどひどい風邪なんだろうな」 そういいながら、横島はそのメモをおキヌから受け取った。 「おキヌちゃん……この、ここに書いてある風邪薬ってのは?」 予定を確認するため、スケジュールの書かれている帳面を取りに向かっていたおキヌ に、横島が尋ねた。 「あ、風邪薬が切れちゃったそうなんで、持ってきて欲しいって言われたんです。だか ら、あとで行ってきますね」 おキヌの声を聞きながら、横島はふたたび手にしていたメモに視線を落とした。 ──薬、ねぇ。そういえば確か、どこかの棚の中に救急箱があったような。あれのこ とかなぁ。 「事務所に常備してある薬を、持ってきてくれってことなのかなぁ。おキヌちゃん、風 邪薬買うお金なんて持ってないよね」 「あ……どうしましょう。横島さんは、持ってないんですか?」 「ないよ」 横島は、そう言いながら財布を取り出すと、おキヌの前で逆さにした。財布の中から、 硬貨が何枚か音を立てながら机の上に散らばった。 「事務所に確か常備薬が入れてある救急箱があったから、その中から持っていけばいい んじゃないかな」 「じゃあ、そうしますね」 おキヌはそう言い残して、隣の部屋へと消えた。 横島は、薬の行方よりも気を取られていることがあった。 ──美神さんが風邪で寝込んでいるってことは、寝込みを襲うチャンスかもしれない な……。あ、でも自制心がなくて手加減してくれなかったら、下手したら死にかねない からな。うーむ。 「横島さん、薬が見つかりましたから、私これから届けに行ってきますね。事務のほう お願いします」 そう言っておキヌが事務所を出て行った後も、横島はそのまま考え続けていた。 ──究極の選択か……うーん。 明かりを落として薄暗くした寝室の中で、美神はまどろんでいた。ひたいに置いた氷 の冷えた感触が、熱っぽい身体に心地好かった。 妙に身体に残る感じのする疲れと、時折出る激しいせき。これほど症状の重い風邪は、 美神のここしばらくの記憶にはなかった。 ──そういえば子供の頃は、風邪になるとママがお粥を作ってくれたっけ。 美神は、頭に残る手がかりを頼りに小さい頃の記憶をよみがえらせた。優しい顔をし た母親が、心配そうに自分の顔を覗きこむ姿が目に浮かぶ。 ──ママと……いつかまた会えるかな。 時間移動者である母親と会ったのは、つい先日のことだった。死ぬ前の母親は、大き くなった美神と会った場所や時間を正確に覚えていたに違いない。すでに自分が経験し たことなのだから。 自分が会った母親や美神自身はそれを把握していないというのはなにか不思議な気が した。 ──それにしても、今のあたしに会ってたってことは、ママってば自分が死ぬことを 知っていたのよね。 美神の気分が重いのは、どうやら風邪のせいだけではないようだった。母親が背負っ ていた、運命という名の重荷。母親の強さを、美神は今更に感じていた。 ──ちょっと感傷的になりすぎているかな。きっと、風邪のせいなんだろうけれど。 その考えにかぶさるように、玄関のチャイムが二度三度と鳴った。だが、どっぷりと 思い出に浸かっていた美神の耳には届いていなかった。 しばらくして、チャイムの音がやんだ。 「あの〜、美神さん?」 美神が我に帰ると、目の前におキヌの姿があった。心配そうな顔で、美神を覗きこん でいる。 「あ、おキヌちゃん。いつ来たの」 自分でも、風邪のせいか少しばかり思考力がにぶっているのが感じられた。 ──おキヌちゃん、なんでここにいるんだっけ。 「今ですけど。呼び鈴をいくら鳴らしても返事がないんで勝手に入っちゃいましたけど、 まずかったですか?」 ちょっとうろたえながら、おキヌが答える。美神は、その問いを否定するように軽く 首を振った。と同時に、先程自分が事務所に電話をかけていたことを思い出していた。 「ん……ちょっと考え事してただけだから、別にかまわないわよ。薬、持ってきてくれ た?」 「事務所に置いてあるのを持ってきました。これで、良かったんですよね」 おキヌが、薬の入った小さな箱を見せた。 「ありがと」 「なにか材料さがして、お粥でも作りますね。とにかく口に入れておかないと、身体に 悪いですよ」 おキヌは、そう言いながらキッチンに消えていった。 美神も、あまり食欲はなかったが、そのおキヌの真心を素直に受け入れることにした。 吐きそうな気分でもない以上、なにか食べておく方がいいのは確かだった。それに、多 少なりとも食事を取らなければ、薬を飲むこともできなかった。 もちろん、おキヌの作る料理だから食べる、という大きな理由もあった。ものを口に 入れることができないゆえに多少味付けにばらつきがあるとはいえ、おキヌの作る料理 は美味しかった。その料理の腕には、美神も一目置いている。美神自身もそれなりに料 理が作れない訳ではないのだが、相手のことを思いやって作る回数の違いによって差が 出るのだろうか。 しばらくキッチンで鼻歌が聞こえた後、湯気をたてた鍋を抱えて戻ってくるおキヌの 姿が見えた。 「少しでもいいから、食べて下さいね」 おキヌが作っていたのは、薄味の素粥だった。ほどよく煮込まれた真っ白な米の中に、 梅干しが彩りをつけている。 ──このくらいなら、食べられそうかな。 れんげを手にして、美神は粥を少しずつ口に運んだ。 気のせいか、そのお粥からは、ほのかに母親の味がした。 「美神さん、それじゃお大事に」 「どうもありがとう、おキヌちゃん。事務のほうの処理、よろしく頼むわね」 ボーっとした頭で、美神はそれだけ言うと、わずかに起こしていた上体をベッドに倒 しこんだ。しばらくして、おキヌが部屋を出て行く気配があった。 ──ちゃんと言っておかなかったから、横島クンの顔を見ることになるのかもしれな いと思ってたけど、おキヌちゃんで助かったわ。 「そうだ……薬、飲んでおかないと」 美神は、咳き込みながらおキヌが持ってきた薬に手を伸ばした。箱を開け、個別にパ ッケージされているカプセルを取り出す。 「食後二錠……だって言ってたかしら。」 薬を取りだす前に、美神は心に引っかかるなにかを感じたような気がした。が、特に 理由らしきものを見つけ出すこともできず、そのまま白いカプセルを二錠手のひらに乗 せ、口に含んだ。 コップに満たされた水を喉の奥に流しこむと、そのカプセルはさしたる抵抗もなく胃 の中へと落ちて行った。 ひどい風邪のせいで霊感が鈍っていたために察知することはできなかったのだが、美 神が違和感を感じたのも無理はなかった。その薬の箱には確かに『厄珍堂処方』と書か れていた。 「さてと、薬も飲んだし、後はゆっくり寝て静養するだけだわね……」 美神は、毛布を頭までかぶって目をつぶった。夢を見るとしたら、母親の出てくる夢 を願いながら……。 暗闇に、一筋の閃光が走った。轟音とともに、閃光の先から弾けるように熱気と煙が 立ち上る。 美神の視界も、瞬間真っ白な光で満たされた。徐々に目が慣れてくるにつれ、かすん でいたあたりの様子も見て取ることができた。 煙の中から、ぼんやりと影が人の形に変わっていくのが見えた。かすかな靴音ととも に、人影は近づいてくる。 ──あれは……ママ? 霞がかかったようにぼんやりとした意識の中で、それだけがはっきりとしたことだっ た。見間違うはずもなかった。 美神は、前に足を踏み出そうとしてバランスを崩した。身体が、意志に反して、動く ことを拒否していた。凄まじいまでの脱力感が、美神の身体を包んでいた。 「……令子、令子なの?」 聞き覚えのある声が、美神の耳に届いた。 「ママ……」 「もっと、素直になることも覚えなさい。強がりは、いつか必ず破綻をもたらすものな のだから」 しばらく何かを思い出そうとするしぐさを見せてから、言葉を続ける。 「横島さん……だったかしら。あの男の子のこと、好きなんでしょう?」 「ちょっ、やだ、なんであたしが横島クンのこと好きだなんてことになるのよ。」 「意地っ張りだから、理由を探して自分を誤魔化しているの。年齢とか容姿とか甲斐性 とか、そんなもので人を好きになる訳ではないのよ」 「あたしの好みは、渋くて包容力のありそうな人なの。横島クンはどちらの条件でもハ ネられるわよ」 「……ふふっ、まあいいわ。いつか自分の本当の気持ちに気付く時がくると思うから。 その時には自分に正直になりなさい」 ──あたしが、横島クンを? 考えてもいなかったことだった。いや、実際には考えまいとしていたのだろうか。 母親の声が、遠くへと去っていくような気がした。小さくなってしまった声は、すで に美神には聞き取ることができなかった。何故か、とても大事なことを言われているよ うな気がして、美神は声の去っていく方向へ思わず手を伸ばしていた。 だが、闇の中にしばらくさまよった手は、何もつかむことはなかった。 ──暑い。ううん、熱いのかしら。 浅い眠りを繰り返すうち、美神の身体は徐々に変化を起こしていた。 身体の中心から何かが沸き上がってくる。久しく感じたことのない感触だった。 気付いた時には、もうすでに手遅れだった。 美神の肢体は、ほのかな桃色に染まっていた。上気した頬が、熱い鉄を押し付けられ たときのように熱くなっていた。 ──ん……あん。 知らず知らずのうちに、美神の両手は強くシーツを握り締めていた。上気した身体が、 まるで自分のものでないかのようにさえ思えた。 「なんなの……これ」 身体の芯が、燃えるように熱く感じられた。その灼熱した部分から、四肢の隅々にま で熱が行き渡っている。 「い、いやっ」 自分の手が意志に反して動くのを、美神は止めることができなかった。身体の存在を 確かめるように、指が肌の上でうごめいていた。 「んっ……」 自分の手のひらが胸を包みこんだ時、美神の口からあえぐような言葉が漏れた。柔ら かい感触の中にある固いしこりに、自分の指が触れる。 その瞬間、美神の身体に電流が走った。心地好いしびれが、染みるように全身に行き 渡っていく。 ──こんなに敏感なはずないのに……身体が、変になってる。 その考えも、わずかに美神の脳裏に浮かんだだけであった。次の瞬間には、それは震 えをともなう快感に流されて頭の片隅へと忘れ去られていた。 自分では意識もしないまま、美神の指は両足の付け根へと伸びていた。密集した体毛 のざらざらとした感触の中から、わずかに盛り上がった肉の感触を探し当てる。 指が、肉を割った。柔らかな湿った感触が、指の腹に伝わってくる。さらに奥へと指 を入れると、美神自身は十分な潤いを持っているのが感じられた。 「よ、横島クン……」 ──な、なんであんなヤツの名前が出てくるのよっ。ママが余計なこと言ったせいで、 意識しちゃってるじゃない。 思わず漏らした声に、美神は自分自身とまどっていた。 「あ……」 美神の指が、執拗に突起に触れていた。強く触れるたびに、身体の奥から強くなにか が沸き上がる。 いつの間にか美神は、横島が美神を愛撫しているかのような錯覚さえ覚えていた。横 島の顔が、姿が、美神の脳裏にはっきりと浮かんでいた。 「ん……やっ」 気恥ずかしさが、美神の身体に起こっていた変化をかろうじて押さえつけていた。 無意識のうちに横島を恋愛対象から外していたのは、美神自身の美意識ゆえなのだろ うか。身近な存在ゆえに、好意的になってしまっている自分を否定しているのは。 表面の付き合いが嫌いで、うわべだけの笑顔に飽き飽きして、人が信じられなくなり つつあった頃。美神が横島と初めて出会ったのはそんな時だった。 横島の出現によって、美神は救われた。横島と出会う前には、中学生の頃──母親が 死んだ時とはまた違うすさんだ生活の中に、美神は埋没していた。人よりもお金を信じ、 穏やかな貧しさよりも荒れた裕福さを求めようとしすぎていた。 気持ちよく笑えることができるようになったのは、横島と出会ってからだった。 深い波が、幾度となく美神をさらっていった。真っ白な意識の中で、美神は何者かに 抱きしめられているような感覚を得ていた。そして、それによって感じているこれまで にないほどの幸せも。 自分を抱いている男性が果たして誰であったのか、顔を確かめることはできなかった。 美神が求める理想の男性……おそらく抱かれている相手はそうであったのだろうが。 ──お兄ちゃん? それとも……。 西条の姿が、明確なイメージとともに美神の頭に浮かんだ。 輪郭のぼやけた横島の姿が、消えては現われていた。過去の事件での記憶が、美神の 頭の中を駆け抜けていく。 命を助けられたからでもなく、接触の機会が多いという単純な理由からでもなく、そ の正直さと人の好さに、わずかずつ惹かれていたのかもしれない。闇の中に落ちていく 記憶の中で、美神は意識することもなくそんなことを考えていた。 ──横島クンのことが……好き? 「あたしは……あたしが本当に好きなのは……」 その後の言葉を、美神の唇は言葉を形作ろうとしたが、かすかに動くだけで音を発し はしなかった。自分が何をつぶやこうとしていたのかを知らぬまま、美神はそのまま眠 りに落ちていった。 「おはよー」 美神の元気な声が、事務所の中に響いた。その声には、風邪を引いていた気配など、 微塵も残ってはいなかった。 おキヌが美神に近づき、声をかけた。 「美神さん、身体のほうはもう大丈夫なんですか?」 「ま……ね、あんまり事務所休んでいるわけにもいかないでしょ。とりあえず仕事でき そうなくらいには回復したし、部屋で寝ているのにも飽きたしね」 あくびをしながら、美神は部屋の中を見渡した。何日もあけていたわけでもないのに、 妙に懐かしく感じられた。 休む前と、事務所の様子は少しも変わっていなかった。美神のほうは……心の中でな にか変わったのだろうか。 美神の視界の隅で、なにかが動いた。それは、ソファから立ち上がる横島の姿だった。 「あれ、美神さん来てたんですか?」 「脅かさないでよ、まったく。なんでそんなところにいるの」 少し動揺しているのを隠しながら、美神は問い詰めるような口調になった。頬がわず かに上気しているのが自分でも分かった。 ──き、気付かれてないわよね。 「なんでって……昨日、給料日でしょ? 電車賃しかなくて死ぬ思いで来たのに、うっ かりおキヌちゃんにことづけるの忘れたもんだから、帰るに帰れなくて事務所に泊まり 込みですよ」 「あ……そういえばそうだったわね」 ぎゅるる、と横島の腹が鳴った。不幸にも事務所の冷蔵庫も空っぽに近い状態だった ようだ。 「ま、そんなわけで美神さん、謝罪の意味を込めて熱烈なキスを……」 言うが早いか飛びかかってきていた横島のあごに、美神の蹴りが綺麗にカウンターで ヒットした。倒れた横島を見て、美神はため息をついた。 ──やっぱり、あれは絶対風邪のせいで出た心の迷いだわっ。 どうやら、美神の心の結論が出るのはまだまだ先のことになりそうだった。 仕事の訪れを告げる電話のベルが、けたたましく鳴りはじめていた。 <終>
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