『弱き者よ、汝の名は…』 〜 To Heart 来栖川 綾香 〜




 夕方から降りはじめた雨は、少しもやむ気配がなかった。
 ときおり風にあおられて、閉めた窓ガラスを叩くように横殴りに降りつけてくる。
 CDを聴いていたヘッドホンを外して、顔を上げる。
 雨の降る音だけが家の中に響いて、それはまるでオレの陰鬱な気分を盛り上げようとしている
かのようだった。
「天気が良けりゃ、綾香んトコでも遊びに行くんだけどなぁ」
 さすがにこの天気では、外へ出ていくのも面倒くさかった。
「…電話でもするか」
 立ち上がって、部屋を出る。
 その瞬間、聞き慣れた音が耳に届いた。
 どうやら、部屋のドアごしでは雨の音にまぎれて聞こえていなかったらしい。
 階下で、電話のベルが鳴っている。
 オレは、慌てて階段を降りた。
「…はい、藤田です」
『突然申し訳ございません、藤田様』
「また、珍しいところから電話が来たな」
『無礼かとは存じましたが、危急のおりにて失礼させていただきました』
 相手はオレの軽口を気にもせずに、丁寧な口調を崩そうとしない。
 電話の相手は、来栖川家執事――セバスチャンだった。
「いいぜ、別に。で、急ぎの用っていうのは?」
『綾香様が、そちらにいらっしゃらないでしょうか』
「――は?」
 その言葉は、オレの意表をついた。
 頭の中で、一瞬疑問符がぐるぐると回る。
「いや、いないけど。…出かけたのか?」
『はい。決まった時間になっても戻られないものですから、もしかしたらそちらではないか…と』
「いや、今日は会ってないから。それに、約束もしてないし」
 感じる、かすかな違和感。
 確かに綾香のすべてを知ってるわけじゃない。
 だが、オレに一言もなく姿をくらますっていうのも妙だった。
 だいたい、セバスチャンの読み通り、綾香がつかまらなくなったらオレと一緒にいるという
状況が多い。
 もっとも、そういった時は事前にそれらしく匂わせているのか、これまでには電話がかかって
きたりしたこともなかったんだが。
『そうですか、お手数をおかけいたしました。あ、もし綾香様から連絡がありましたら…』
「分かってる。連絡させるよ」
『ありがとうございます。では、失礼いたします』
 電話が切れたあと、受話器を戻すことも忘れて、オレはその場に立ち尽くしていた。
 セバスチャンの、いつもとは少し違う、せっぱ詰まった口調。
 いったい、綾香の身に何があったんだ。
 それに思いを馳せつつ、部屋へ戻ろうと階段に足をかけた瞬間。
 ピン…ポーン。
 いつもと変わらない音色で、呼び鈴が鳴った。
 聞き鳴れたアクセント。
 綾香が鳴らすときのクセだ。
「ちょっと待ってっ!」
 叫んでから、オレは慌てて、玄関の扉を開けた。
 雨が地面を打つ音の中で、暗闇の中に人影が浮かび上がる。
 傘も差さず、雨の中に…。
 それは、服から水滴をしたたらせるほどびしょ濡れになった綾香だった。
「な…」
 思わず、出しかけていた言葉がのどの奥に詰まってしまう。
「浩之…」
 聞き取れないほどの小さい声で、綾香がオレの名を呼んだ。
 うつむいた顔が、崩れるように震え、そして…。
「…うっ…ううっ」
 肩を震わせながら、嗚咽がはじまった。
 綾香のそんな姿に、一瞬だけ、オレは呆然として立ちすくんだ。
 すぐに、オレが今するべきことに気付く。
 立っている、綾香の身体を抱き寄せて、自分の身体に押しつけた。
 そのままゆっくりと、背中を柔らかくさすってやる。
「落ち着けよ、大丈夫だから」
 状況も分からないまま、その時のオレはとにかく綾香を安心させてやることだけを考えていた。
 腕を背中に回したまま、濡れた綾香の身体に触れる。
 かなり長い時間雨の中で立ち尽くしていたのだろうか。
 指先に触れた綾香の肌は、まるで体温がないかのように冷たかった。
「いつから雨の中にいたんだ? 身体…冷えきってるぞ」
 できるだけ非難するような口調にならないように気をつけながら、言葉をかける。
「風呂沸かすから、すぐ入れ」
「…うん」
 心ここにあらず、といった反応が返ってくる。
 細い指先が、小さく震えていた。
 見ると、震えているのは指先だけではなかった。
 寒さからか、それとも別の感情からか、全身が小刻みに震えている。
 こんな綾香を見るのは、初めてだった。
 いつも自信に溢れていて、軽いノリで返してくる綾香とは、まるで別人のように見える。
「なにか、あったのか?」
「…うん」
 返事としてはそれを繰り返すばかりで、一向に要領を得なかった。
 とりあえず、綾香を連れて家の中へと入る。
 肩を抱いたまま玄関を上がり、導くようにして、風呂場の前まで連れていった。
 脱衣所に綾香を残したまま、中に入って手早く湯を張る準備をする。
 コックをひねると、バシャバシャと音を立てて、湯気を立てながら湯が浴槽へと流れ込んでいった。
 ひとまず、水滴が落ちるほどに濡れた髪の毛だけ、タオルで押さえ付けて水気を吸い取ってやる。
「風邪ひくぞ」
 そう声をかけても、やはり放心したままで、綾香はぼんやりと立っているだけだった。
 オレは、あきらめて風呂に入れることに専念することにした。
「…服、脱がすからな」
「…うん」
 濡れているせいで少しばかり勝手が違うが、いつもしているようにオレは綾香の服を脱がしていった。
 もちろん、いつもと違って色気がない状況ではあった。
 水気を吸って固くなっている布地を、引きはがすように身体から取り去ると、肉付きのい
い綾香の身体が見えてくる。
 心なしか、いつも猫科の動物のようにしなやかに思える四肢も、力なく見えてしまう。
「……」
 オレも綾香も無言のまま、その作業は続いた。
 いつもなら、半ば冗談で半ば本気で、服を脱がすときに嫌がったりすることもあるのに、いまは
まるで人形のように身動きもせずに立っている。
「風呂、入れるからな」
 言い訳をするように言葉を発して、オレは残った最後の布地に手をかけた。
 ホックを外して、両腕から抜き取るようにしてブラを取り去る。
 立ったままの下半身から、足にひっかかる濡れた下着を、丸めるようにしながら下げていく。
 ぱさっと、支えるものがなくなった下着が、足元に落ちた。
 指先で触れた綾香の身体は、やはり氷のように冷たく冷えきっていた。
 寒さのせいか、いつもなら健康そうな血色の肌が、青白くさえ見えている。
「よっと」
 一糸もまとわぬ姿になった綾香の身体を、ゆっくりと後ろに倒しながら両腕で抱え込んだ。
 背中と足の下で身体を支えて抱き上げると、綾香が緩慢な動作で、腕をオレの首に回して
くる。
 こんな時だっていうのに、オレの腕の中にある綾香の身体は、オレを誘うかのように綺麗に見えた。
 微妙な曲線を描きながら大きくふくらんだ胸元と、その頂上に息づく桃色の突起。
 引き締まった腰のラインから流れるようにして伸びる、張りのある足。
 その付け根にちらちら見え隠れする、淡い陰り。
 すがるようにオレを見上げた、切なげな瞳――。
 軽く頭を振って、ろくでもない妄想を振り払う。
 おあずけを食った犬っていうのは、こういう状態のことをいうのかもな。
 どうしようもない自分の感情に、ちょっと嫌悪感を感じながら、湯気の満ちた風呂場へと足を
進み入れた。
「よいしょ…っと」
 滑らないように、濡れた床を足先でしっかり掴むようにしながら、綾香の身体を床へと降ろす。
「とりあえずシャワーだけでも、浴びたほうがいいだろ」
 温度を確認して、ぬるめの温度で、勢いを弱くしたシャワーを綾香の身体に当てていった。
 まず手足から、徐々に身体の中心に近づけるようにして――。
 軽くマッサージをするようにしながら、それを続けていくうちに、少しずつ血色が元に戻って
いくように思えた。
 手のひらを当ててやると、あれほど冷たく感じた身体に、血がまた通い出したような温かみが
感じられる。
「…っと、とりあえずこれで大丈夫そうだな」
 湯舟に張ったお湯の温度を確かめるために手を差し入れる。
「こっちもいい湯加減だと思うし、ゆっくりつかったほうがいい。とりあえずオレは上がるから。
どうも服着て風呂場にいるっていうのも妙な気分だし」
 そう言い残して脱衣所への扉を開けようとしたオレの足を、綾香の声が止める。
「…一緒にいて」
 振り返ると、床に座ったさっきまでとまったく変わらない姿勢で、綾香が首だけをこちらに
向けていた。
 その瞳に、不安の色が浮かんでいる。
 それを見て、オレはどうするべきかを理解した。
「わかった。…ちょっと待ってくれ」
 それだけ言って、オレはその場で服を脱いだ。
 扉を開けて、適当にたたんだ服をその向こう側へと放り投げる。
「これでいいか?」
 綾香の横に、腰を降ろした。
 軽く、肩を抱いてやる。
「お前がいいって言うまで抱いててやるから」
「うん…」
「でも、身体、暖めないとな…」
 綾香のほうを見ると、オレの意図を察したのか、こくんと頷いてくれた。
 肌を合わせながら、抱え込むようにして、湯舟に一緒に入る。
 ザバーッと大きな音を立てて、オレたちの身体が押し退けた分のお湯が外へと流れ出していった。
 少しぬるめだが、身体をほぐしてくれる暖かさだった。
「ふぅっ…」
 綾香も、気分が楽になったのか、身体の力を抜いて息をつく。
 青ざめていた唇や頬にも、いつも通りの血色が戻りつつあった。
「なぁ綾香、聞いてもいいか?」
 オレの言葉に、綾香が顔を向ける。
「何があったんだ、いったい」
 その言葉に、綾香が眉を寄せた。
「怖かったの…すごく」
「怖い…?」
「物凄い殺気をまとった黒い影が迫ってきて、いくつか技出したんだけど、全然当たらなくて…
まるで、人じゃないモノを相手にしてるようだった」
「ちょっと待て。どこかで、そんなのと出会ったっていうのか?」
 オレの問いに、綾香は軽く頷いて応えた。
「もうダメだって思ったとき、なにが原因なのか分からないんだけど、そいつが慌てて去っていく
ような気配があって…気がついたら、一人で立ってた」
 その時のことを思い出したのか、綾香が身を震わせた。
「これまでそんなこと感じたことなかったのに、そのダメだって思った瞬間、すっ…て、身体が
冷えたように感じて、恐怖…なのかな…身体の中から震えが走って…」
 ふたたび、綾香の目に涙が浮かぶ。
「怖い…怖かったよ……」
 そのまま綾香が、抱きついてきた。
 しゃくり上げながら、抱きとめられないなにかを抱き上げるように、しゃにむに力を込める。
「抱いて、浩之…お願い…」
 消え入りそうに小さな声とともに、綾香の指先に力がこもる。
「このままじゃ、不安だから…お願い……忘れさせて」
 親とはぐれた子どものように、何かにすがりつこうとする瞳。
 きゅっと、オレの腕を綾香が掴む。
 まだ少し濡れたままの髪を、オレは優しく撫でつけてやった。
「安心していいよ…ずっと、そばにいる」
 頭を自分の肩に軽く押しつけたまま、耳もとでささやく。
「どうなったとしても、オレが守ってやるよ。たとえ歯が立たなくても、最後まで一緒にいるから」
「…ありがとう」
 綾香の顔に浮かび上がっていた不安の表情が、少し収まったように思えた。
 それを確認して、オレは顔を寄せた。
 唇を触れ合わせる。
 軽く舌を差し入れると、遠慮がちな反応が返ってきた。
 舌先を絡めあわせながら、背中に回した腕に力を込め、抱きしめていった。
「んふっ…」
 鼻にかかった吐息が漏れる。
「あぁ…」
 膝を割って、身体を密着させた。
 そのまま、背中からお尻にかけてのラインをなでるようにして、手を動かしていく。
 背筋の一定の個所に指先が触れると、綾香の身体がぴくんと跳ねた。
 そこを中心に、指先を蠢かしていった。
「ん…ぁふ…」
 いつもよりも敏感になっているのか、少しだけの動きにも、確実に反応してくる。
「そういう可愛いとこ、好きだよ…」
「…ひゃんっ」
 耳もとで、息を吹き込むようにしてささやく声にも、切なげな応えがあった。
 そのまま、胸元に手を添える。
 たっぷりした質感を楽しみながら、少しずつ綾香の弱点を責めていった。
「……っ…」
 荒い息をつきながら、綾香が、上気した顔をオレに向ける。
 いつも通りならば、それは無言の催促だった。
 指先で、綾香に触れた。
 明らかに湯のぬくもりとは違った、ぬるりとした粘着質の感触。
 その中へと、指を差し入れていく。
「…はぁっ」
 唇をかみしめながら、綾香が小刻みに身体を震わせる。
 触れた指先を動かしながら、オレは綾香の唇を塞いだ。
「ん…んんっ…」
 指の動きに合わせて、くぐもった声が漏れる。
 敏感になっている箇所に触れるたび、綾香の身体が大きく揺れ、水面を揺らした。
「…あふっ…ぁん……」
 綾香の高まっていく声が、少しずつ、オレの理性を削っていく。
 固くなった突起に触れた指に、少しだけ力を込めて、あえてゆっくりと、その指先を動かした。
「浩之ぃ…」
 じらされた綾香が、オレに切なげな瞳を向ける。
「いいよ…おいで」
 自分の身体を動かすと同時に、腕で綾香の身体を導いてやる。
 抱きしめている綾香の身体が、上になるように。
 密着した、肌の暖かい感触が気持ち良かった。
 まだ乾ききっていない髪が、ぱさりとオレの顔の上に落ちてくる。
「っと…」
 オレの身体をまたぐようにして、綾香が腰を上げた。
 ぼうっとした顔つきのまま、少しずつ身体を下げてオレのものを包み込んでいく。
 ちゅっ。
 外にあるお湯よりも熱く、ぬめった感触が、先端に触れる。
「ん…」
 少し入った状態から、そのまま一息に、綾香の中へと侵入していった。
「くっ…」
「ふあっ」
 声を漏らして、綾香がオレに抱きついた。
 ふるふると、その状態のまま身体を揺らす。
「浩之…」
 目の端に少しだけ涙を浮かべて、綾香が抱きついてきた。
 オレも綾香も、いつもとは違うものを求めていた。
 相手と一緒にいるという、安心感のようなもの。
 オレは繋がったままで動くこともせず、綾香の身体を抱きしめた。
 顔にかかるほつれ髪をよけ、髪をゆっくりと撫でてやる。
 ゆっくりと動きながら、それだけで、オレはどうしようもなく高まっていった。
「あんっ…ひろゆき……」
 息の荒さと、声のトーンから、綾香も、オレと同じように昇りつめようとしているのが分かる。
 唇をあわせ、身体を寄せあい、指先を絡めあった。
 つながっているところだけではなく、全身に行き渡るような心地好さを感じながら、オレの
中で、綾香への想いがはじけた。
「…あっ…あぁ……」
 ほぼ同時に、安堵の声を漏らしながら、綾香が身体を震わせる。
 絡めあっている指先に、力がこもった。
 それが、まるで二人の絆を表しているかのようだった。




「ホラー映画、だぁ?」
「…うん」
 てへへ、とちょっと照れた風を装って、綾香が頭を掻いた。
「ちょっと感化されちゃって、入り込んでたみたいねー」
「みたいねー、じゃねえっ!」
「だって怖かったのよー」
「だいたい、怖いの苦手のなの分かってるくせに、なんでそんなもん見に行ったりしたんだ?」
「ん…ちょっと友だちに付き合ってたんだ。でもひどいのよ、映画館入って見始めるまで全然
そんなこと言ってくれなかったんだから」
「誘われた時点で見極めろよ。っていうか入るときに気付け」
「普通の映画みたいだったのよ。確かに、ちょっとカップルの率が多いかな、とか思っては
いたけど」
「途中で出るとか、色々あるだろーが」
「う…それはそうなんだけど」
「なんか、オレ一人気負っててバカみたいじゃねーか」
「んふふふ…浩之、格好よかったよ」
「そんなで誤魔化されるか」
「惚れ直しちゃった、って言っても?」
 そういった綾香が、いつもとは明らかに違う、うっとりとした瞳でオレを見つめていた。
「う…」
「愛してるよ…」
 視線が一瞬交錯したあと、綾香が、ゆっくりとまぶたを閉じる。
 ――誤魔化されたな。でも、まぁ、いいか。
 顔を寄せ、唇を合わせた。
 想いを表すように、いつもより長く――。
 そして、気がつくと綾香のことを抱きしめていた。
 そのあと、オレたちはもう一度身体を重ねた。
 高まったお互いの想いを、鎮めるために。
 二人とも、いつもより激しく乱れた。
 思い出すと、頬が熱くなる。
 …記憶の奥底に封印しておこう。



「ねぇ…幸せってさ…幸せって、こういうことを言うのかしらね」
 シーツの下に潜り込んだ綾香が、楽しそうに足をぱたぱたと動かしながら、脳天気に言った。
 もう、いつもすぎるぐらい元のままの、綾香のペースだ。
「知らなかったのか? オレは、綾香がいればずっと…」
「…ずっと?」
 オレの言葉に、綾香が、少しだけ瞳を期待に輝かせた…ように見えた。
「……やめた」
「なによ、せっかくだから言ってよー」
「口に出すと幸せが逃げるっていうだろ」
「逃げてもいいから、言って」
「無茶苦茶言うな」
「言って言って言ってーっ」
 やっぱり、オレたちはいつものオレたちだった。
「なぁ…綾香」
「…ん?」
「今回は馬鹿みたいなオチだったけど…」
 言葉を途中で飲み込んで、心の中で続ける。
 お前を守るためだったら、なにがあっても後悔しないと思ってるんだからな。
「…うん。信じてる」
 まるでオレの心の中を読んだかように、綾香が応えた。
 主人にすり寄ってくる猫のように、身体を寄せてくる。
「もう騒がせんなよ」
「ん…しない」
「本当だろうな?」
「…と、思う。たぶん」
「…心臓に悪いからな、何度もやられると」
「あ、でも浩之があたしのこと心配してくれるのは嬉しいから、またやっちゃうかも」
 天使のような微笑みを浮かべながら、小悪魔のささやき。
「勘弁してくれ」
「どうしよっかなー」
「そういうことを言う口は…こう」
「んっ…」
 言葉がとぎれる。
 かわりに聞こえるのは、綾香の甘い吐息だけだった。
 しばらくの間、そんな時間が流れていく。
 ピンポーン。
 それに割り込むように、唐突に玄関の呼び鈴が鳴った。
「あーっ」
 それを聞いて、綾香がすっとんきょうな声を上げる。
「セバスチャン…迎えに来るんだった」
「そりゃ来るだろう。呼んだんだし」
「まずいなー。誤魔化してなんとか家に帰ろうと思ってたのに…」
 それって、結局帰れば会うことになるから一緒なんじゃないだろうか。
「違うの!」
「…何も言ってないぞ、オレ」
「帰ればどっちみち会うのに、とか思ってたでしょ」
「思ってた」
「向こうで会うんなら誤魔化しようもあるでしょ。でも、ここで会ったらいらない誤解の元に
なるじゃない」
「誤解…でもないからなぁ」
 乱れたシーツを見れば一目瞭然だ。
 どう曲解しても、たぶん現実よりはおとなしいに違いない。
「きゃっ」
 ぺち。
 形のいい綾香のお尻を、手のひらで軽く叩いてやる。
「ほら、叱られてこい」
「助けてくれないのーっ!?」
「これは別だ。だいたい、オレが出ていったら話がややこしくなるだろうが」
「うぅ…薄情なのね」
「本気で困ってもいないヤツを助ける気はないぜ」
 オレの言葉に、綾香が舌先をぺろっと出した。
「なんだ、バレてたの?」
「当たり前だ」
「…ねえ」
 オレを見上げた綾香が、おねだりのポーズを取る。
「行く前に、もう一回キスして」
「…わがまま娘」
「…ダメ?」
「いや、喜んで」
 儀式のように、軽く触れ合うだけの口づけをする。
 軽い気持ちではなく、想いを込めて。
 それが通じたのか、特に不満そうな様子も見せず、綾香はシーツの下から抜け出した。
「じゃ、行くね」
「ちょっと待った」
「…なに? やっぱり助けてくれる気になった?」
「そうじゃない」
「じゃあ、なによ」
「出ていく前に、服ぐらい着ていけ」
「…あ」
「大サービスだな。セバスのおっさん、倒れるかもしれないぜ」
「きゃーっ」
 大慌てで、綾香が服を探し始める。
 …なんか、重大なことを忘れてるような気がするな。
「そういえば」
「なっ、なにっ!?」
「綾香の服、洗濯機に入ったままだ」
「そういうのは早く言ってよーっ」
「いま思い出した」
「んーっと、じゃあ服、貸して」
「前に泊まったときに、お前がオレの服と引き換えに置いていったのがあるけど」
「どこどこ?」
「そこの…中。確か右の奥に…」
 オレの言葉に、綾香がクローゼットの中をのぞき込む。
「あーっ、これお気に入りのじゃない。最近見ないと思ったら…」
「…言っておくけど、置いていったのはオレじゃないからな。もうひとつ言わせてもらえば、
そんときお前が着ていったオレの服はまだ返ってきてない」
「あ、あれお気に入りとして取ってあるから」
「そんなことだろうと思ってたよ…。あ、下着はないぞ、さすがに」
「不便ねー」
「今日の分を置いていってくれれば、次に来たときまで保管しておくけど?」
「遠慮しとく。乾いたら明日にでも返してね」
 ジト目で綾香がオレを睨んだ。
「別に下着に執着はないぞ、オレは。中身のほうがいい」
「…まぁ、ね」
 オレの言葉から、激しかった今日の行為を思い出したのか、綾香が頬を染めて目を伏せた。
「ね、そういうのって喜んだほうがいいのかな?」
「オレに聞くなって」
 ピンポーン。
 妙な沈黙が落ちたオレたちの間に、再度呼び鈴の音が割り込んできた。
「催促されてる…じゃあね、浩之。あ、下着の件は考えておいてあげるからね」
「別に考えなくてもいいっ!」
 軽口を叩きながら、玄関まで一緒に出る。
 外には、複雑な表情をしたセバスチャンが迎えに来ていた。
「お迎えに、あがりました」
 心なしか、疲労しているようにも見える。
 綾香と比較すると、可愛そうに思えるくらいだった。
 ある意味片棒をかついでいるオレが、こんなことを言う資格はないんだが。
「んじゃね、浩之。ばーい」
 そんな雰囲気など気にもせず、脳天気な声を残して、綾香は車に乗り込んだ。
 無機質な音を立てて、ドアが閉まる。
 車の中から手を振ろうとして、さすがに何か言われたのだろうか。
 食ってかかるような表情のまま、綾香を乗せた車は走り去っていった。
「なんか…疲れたな。色々と」
 残されたオレには、まだ重大事項が残されていた。
 まずは、散らかし放題の家の中を片づけないといけない。
 部屋の中…は、まぁ後回しにしよう。
 洗濯ものは…っと。
 洗濯機に放り込んで、全自動で脱水までかけてある綾香の服を見に行く。
「よし、終わってるな」
 ひょいひょいと、無造作に取り出す。
 下着も入っていたが…いまさら恥ずかしがる義理もないだろう。
 と、おそらくは上着のポケットに入っていたのだろう、紙屑のようなものが床へと転がり落ちた。
「げ…そういやなにも考えずに放り込んじまったけど、まずかったかな」
 おそるおそる、紙屑を手にする。
 硬い、良質紙でできた小さな紙片だ…開いてみると、中には大きく
『痕』
と書かれていた。
 …映画の、チケット?
「ってこれ、ホラーじゃねーだろがっ」




《終》















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