『ひとつの願い』 〜 Kanon 美坂栞 〜






 ベッドにちょこんと座った栞が、感慨深げに部屋の中を見回した。
 それはまるで、思い出を確かめでもするような、ぎこちない動作だった。
 栞がこの部屋に来るのは、まだ二度目でしかない。
 部屋の様子は、前に栞が訪れたときと、ほとんど何も変わっていないはずだった。
 でも、そんな部屋の中を見回して、栞は懐かしい場所を訪れたかのように、かすかに目を細めた。
「前にここに来たのが、ずいぶん昔のことみたいですよね」
 シーツの上に視線を落として、恥ずかしそうに俺の服を掴む。
「いろんなことがあったからな」
 そう応えながら、栞の座っているすぐ横に、俺は並んで腰を下ろした。
「…そうですね」
 栞が、俺の肩に頭をもたれかけてくる。
 その瞬間、ふわりと、いい香りが鼻の奥をくすぐっていった。
「祐一さんに、ひどいこといっぱいされました」
 いつもと変わらない声。
 くすくすと笑いながら、栞が俺の罪状を述べ始める。
「いつも羽織っていた、お気に入りのストール…」
 栞が、指を口元に当てて拗ねた表情をする。
「祐一さんとの、初めてのしるしがついてしまっているんです」
 …げ。
「気がついたとき、ものすごく恥ずかしかったです」
 そりゃそうだろう。
 それを見つけたときの、栞の表情が目に浮かぶような気がした。
 困ったような、泣き出しそうな顔。
「頑張ってしみ抜きしたんですけど、完全には取れませんでした」
 非難するように、栞の視線が俺に注がれる。
 そういえば、確かにあのとき栞は初めてだったし、出血もしてたし、下に敷いてあったのは
例のストールだったような。
「ごめんな、栞」
「でも、実はそんなに嫌じゃないんです」
 そう言って、言葉を区切る。
 なにか、言葉を探すような仕草。
「…だって、祐一さんが私のこと、普通に扱ってくれた…その証なんですから」
 恥ずかしがって顔を真っ赤に染めながら、でも確かに笑って、嬉しそうに俺を見つめる。
 その笑顔に、少しだけ違和感を感じた。
 ちくりと、胸を刺す軽い痛み。
 いつもの、とびきりの笑顔とは違う。
 ほんのわずか、悲しみをたたえた瞳。
「あ、端っこのほうに、公園で焼きそば食べたときのソースも付いてますよ」
 …げ。
 俺かい。
 あ、血痕がついたのも俺のせいか。
「マナー、悪いですよね」
「…すまん」
 もう二度とこないと思っていた、柔らかな時間。
 他愛のないやりとり。
 そんな、他人が見たら無駄にも見えそうな時間こそが、俺たちにとっては大切な時間だった。
「栞が可愛かったから…つい、な」
 負けじと言い返すと、栞の顔が一瞬で赤く染まった。
「…恥ずかしいこと、言わないでください」
「本当のことだからしかたないだろ」
「そんなこと言う人…」
 いつもの口調で文句を言いかける唇の動きをふさぐために、不意打ちのキスをした。
「…あ……」
 さすがに驚いた表情をしたものの、栞もすぐに目を閉じて、それを迎えてくれる。
 軽く、何度も何度も、触れるだけのキス。
 そして、次に少し長く、唇を触れ合わせていった。
 栞の柔らかな唇に沿って、舌先を這わせる。
 触れた唇で、それを次に軽く挟み込んだ。
 ぷるんとした感触が気持ちいい。
「んっ…」
 何度か繰り返すうちに、栞の口元から吐息が漏れた。
 背中に、かすかに震える栞の腕が、遠慮がちに回されてくる。
 俺も、栞を抱いた手に、気持ちを伝えるように力を込めた。
 唇を離すと、栞が小さく息を吐く。
「ひどいです…」
 頬をふくらませて、栞が文句を言った。
 俺は、言葉では応えずに、手の中にある髪をゆっくりと撫でる。
 視線を合わせて、無言のまま、俺は撫で続けた。
 栞の表情が、少しずつくすぐったそうなものに変わっていく。
「ひどい…です…」
 さっきとは違った口調。その中には、甘えた響きが出始めていた。
「栞がいけないんだぜ。そんなに可愛く誘ってくるから…」
 立ち上がって、部屋の明かりを落とす。
 暗さに慣れない目に、栞の輪郭だけがぼんやりと映った。
 星と、月と、隣家の明かりだけが差し込む、暗闇。
 ベッドの上に、栞の体を倒し込みながら抱きしめた。
 絡みあう足。
 触れ合う指先。
 重なり合った胸の鼓動。
 そして、吐息がかかる距離には、大切な人の微笑みがあった。
 俯いたままの栞に、声をかける。
「いいか、栞」
「…はい」
 小さな肯定の返事を訊いて、俺は栞の肩に手をかけた。
 栞が身にまとっているものを、一枚一枚、確認するようにしながら脱がしていく。
 白い肌の、綺麗な曲線。
 なだらかな面が作り出す、微妙な陰影。
 それが、目の前にさらけ出されていく。
 下着姿になった栞は、顔を真っ赤に染めていた。
 恥ずかしそうに、手足を抱え込んでいる。あどけない仕草が、可愛らしかった。
 そんな栞を正面から抱きしめて、背中にそっと指を触れていった。
「…っ」
 ぴくっと、体が揺れる。
 それを半ば無視して、肌の上に指を滑らせていった。
 指先に感じる、滑らかな肌触り。
 そして、指先に当たる布の手触り。
 そのまま、手の中で固い感触を探し出していく。
 体を離して、俯いた栞の体を正面から見つめた。
 手を伸ばして、淡色の可愛らしいブラを外す。
 白い肌が、目の前に開かれた。
 慎ましやかにふくらんだ二つの丘。
 固そうに見えるそのふくらみは、見た目よりも弾力がある。
 小ぶりで清艶な胸の真ん中に、桜色に染まった突起があった。
 俺は、それに引き寄せられるように唇を寄せて、軽く触れた。
「胸…」
 栞が、顔を真っ赤に染めながら心配そうに俺を見ていた。
「やっぱり、もう少し大きい方が良かったですよね…」
 ちらりと俺のほうを見る。
 不安げに、その瞳が揺れていた。
 恋をする乙女の、不安を抱え込んだ瞳だ。
「綺麗だから、栞の胸、好きだよ」
 そのラインを確かめるように、指先をゆっくりと動かしていく。
「確かに、大きくはないと思うけど…」
「ひどいです…」
「他の子と比較したことがないから、よく分からないな」
「そう…ですか」
 俺の言葉に、栞が安心したように表情を崩す。
「でも、やっぱりもう少し大きくても良かったかな」
「やっぱり、ひどいこと言ってます…」
 俺の言葉に、栞が真剣に表情を曇らせる。
「ごめん。冗談だよ」
「冗談でも、ひどいです…気にします」
 泣きそうな表情で、栞が俺を見ていた。
 その唇に、自分の唇を合わせた。
 頭に手を置いて、ゆっくりと髪に手を梳き入れる。
 さらりとした感触が、指の中をすり抜けるようにして落ちていった。
「ん…」
 唇のすき間から、どちらともなく吐息が漏れた。
 頭の中が、栞を愛しいと思う気持ちで埋め尽くされていく。
「ごめんな、栞」
 真面目な気持ちで、自然に言葉が出ていた。
「好きだよ…」
 唇を離すと、目の端に涙を浮かべた栞の姿があった。
 きゅんと、胸の奥で何かが弾けた。
 そのまま舌先で、栞の口内に進入する。
 濡れた音が、二つの唇の間から切れ目なく漏れていった。
 自分の中で、栞に対する想いが高まっていくのが分かる。栞を求める、情欲と共に。
 愛しいと思う気持ちと、体が自然に求めている欲望と。どちらも、まぎれもなく俺が欲して
いるものだった。
 半裸の栞に触れる。その時求めるのは、めくるめく快楽の世界。
 はにかんで微笑む栞に触れる。その時思うのは、栞を守りたいという、純粋な願い。
 心を交互に揺らしながら、俺は栞の体に溺れていった。
 足で太股を割り、指先を絡め合い、その華奢な体を、包み込むように抱きしめる。
 腰から足へと指を寄せ、足の間に手を差し入れた。
 ゆっくりと、それを手のひら全体で撫でていく。
 柔らかな肌の気持ちのいい感触と、かすかに感じるうぶ毛を触るこそばゆいような感触が、
俺をその行為に没頭させた。
 しばらく、執拗に愛撫を続けた。
「…んっ……」
 こらえきれなくなった栞が、軽い声を上げながら足を閉じようとする。
 挟まれた指に感じる、柔らかな圧迫感。
 肌に触れながら、その指を引き抜いた。
 足の外側を、ゆっくり撫でる。
 うぶ毛をかすらせるように、微妙な距離を保ちながら。
「……ぁ…」
 声にならない叫びが上がる。
 きゅっとつぶったままのまぶた。
 戸惑いながらの微笑み。
 それを見て、俺は次の段階へ移ることを決めた。
 今日は、栞にも気持ちよくなって欲しい。
 時間をかけて、焦らずしていくつもりだった。
 手の先を少しだけ引き上げて、下着の上から、栞に触れた。
 それを指先で、じっくりと揉みほぐしていく。
 いやいやをするように、栞が左右に首を振った。
「変な感じ…します」
 自分の感覚に戸惑っているのか、栞が困った顔になる。
「ひどいことしたりは、しないから」
 俺の言葉に、栞はちょっと言葉を選ぶようにしながら、
「分かって…ますから…」
 目を伏せて、俺に身をゆだねてくれる。
 その、栞の信頼が、何よりも嬉しかった。
 ゆっくりと、下着に手をかけた。
 俺の指が腰に触れると、栞は少しだけ腰を浮かしてくれた。
 そんなちょっとした仕草に、不意に、愛おしさがこみ上げる。
 するっと、抜くようにして下着を脱がしていった。
 布地を足先へと下ろしていき、恥ずかしそうに寄せあった足のすき間に通すようにして、
両足から抜き取る。
 素肌の感触を心地よく感じながら、体を寄せる。
 身にまとうもののなくなった栞が、不安と羞恥の色をたたえた瞳で俺を見ていた。
 その恥じらう姿が、奇妙な興奮を誘った。
 胸に唇を寄せ、同時に指先で栞に触れる。
 少しだけ、栞の体に緊張が走る。
 そっと指先を動かしていくと、栞の体から徐々に力が抜けていった。
 胸に、唇を這わせる。
 舌先と唇を使って、薄桃色の突起を転がしていく。
 恥ずかしいのか、口づけた胸に変化を加えるたびに、栞の指が、俺の腕を不安げに掴んだ。
 俺は、その指先に唇を触れた。
「あ…」
 目線を上げると、真っ赤になった栞と目があった。
 軽く微笑んで、そのまま元の行為を続けていく。
 それを繰り返していくうち、栞の呼吸が徐々に乱れていった。
「…ぁ………ゃん…」
 時折漏らす声にも、甘い響きが混じり、切なげな吐息が聞こえてくる。
「栞、愛してるよ」
 首筋から背中へ、そして腰から足の付け根へと指先を滑らしていき、薄い翳りの中へといざなった。
 淡い茂みの奧にある、濡れた粘膜に触れる。
「…んっ……」
 少しだけ匂う、汗に似た香り。
 決して不快ではない、栞の匂い。
 それを嗅ぎながら、湿った感触の中へと指を伸ばした。
 くちっとした、柔らかく湿った感触。
 その中へと、指を浸していく。
「気持ちいい…?」
「…訊かないでください」
 俺の問いに、かあっと赤く頬を染めて、栞が顔を背ける。
「……ひゃんっ…」
 敏感なところにわざと触れた俺の指に、栞が反応した。
 言葉での応えよりも、それが栞の状態を素直に表してくれている。
 しばらく、栞を高める行為に没頭する。
 最初は遠慮がちに上がっていた声も、少しずつ高くなっていった。
「あっ…ふぁっ……」
 静かな暗闇の中に、俺の少し荒くなった息と、栞の艶っぽい声とが、交互に吐き出されていく。
 その、唇に触れた。
「栞…いいか?」
 胸を上下に揺らしながら、とろんとした瞳で、栞が俺を見つめた。
 ひとつ息を継いで、こくんと頷く。
 俺は、栞の下肢の間に体を入れた。
 自分でも驚くほど大きくなっていたものを、栞に寄せていく。
 触れた瞬間、さすがに一瞬だけ栞の体に緊張が走った。
 その後にくる、柔らかに濡れた、ぬるっとした感触。
 先端から根本のほうまで、俺はゆっくりと包まれていった。
 狭い中に入っていく感じ。だが、吸い込まれていくような心地よさがある。
 押し進んでいくと、それは柔らかさを保ったまま、俺を迎え入れていった。
「…んんっ」
 栞が、可愛い声を上げる。
 きっとそれは、苦痛と、甘えが入り混じった声なのだろう。
「大丈夫か、栞…」
 まだ慣れない異物が入ってくる不安を、少しでも取り除いてやろうとして、俺は頭をなで
ながら声をかけた。
「大丈夫じゃないです…」
 泣き出しそうな声が返ってくる。
「…でも、平気です」
 栞の腕が、俺の体を抱きしめる。
 互いの肌が触れあった。
 体温が伝わり、心臓の鼓動が感じられる距離。
「嫌なことじゃないですから」
 きゅっと、栞の腕に力が入る。
 俺の前に横たわった、栞の体。
 細く白い肌の少女の、一糸まとわぬ姿。
 深くつながったまま、それを見下ろした俺と、栞の目が合った。
「でも、恥ずかしい……です…」
 ついっと、栞が目をそらす。
 上気した頬にかかるほつれた髪が、可憐な栞の姿をいつもより艶っぽく見せていた。
 横を向いた顔の、頬に唇を寄せる。
 触れるか触れないかの微妙な距離を保ちながら、そのまま耳元まで唇を動かしていった。
「……っ」
 耳たぶに触れた瞬間、栞の体がぴくりと揺れた。
 唇でそれを軽く挟み込んだまま、きゅっと目を閉じた栞の横顔を見続ける。
 ふるふると、栞は小刻みに体を震わせていた。
「耳、弱いのか」
 できるだけ不安を取り除けるように注意しながら、俺は小さく声を出した。
 吐息がかかったのか、栞の体がびくんと大きく跳ねる。
「祐一さん、いじわるです…」
「栞が、色っぽい声あげるからな」
 囁きながら、つながっている部分にも微妙に刺激を与え続けた。
 栞が、何かに耐えるような表情で、首を振る。
 髪が跳ね上がり、うっすらと汗の浮かんだ頬に張り付く。
 顔にかかった髪を、小指でゆっくりと左右に開く。
 そのまま、体を動かした。
 それに応えるように、俺の下で、栞が小刻みに体を揺らす。
「…ひゃんっ、ぁ…」
 言葉にならない声が、次第に増えていた。
 ゆっくりと、栞の中で動き続ける。
「なんだか、気持ち…いい……です」
 栞に包まれた部分から、じんと全身に快感が走った。
 温かく、柔らかく包み込まれる感触。
 それを逃すまいと体を動かすたびに、俺と…栞の体には等しく波が訪れていった。
 火照って、少しだけ赤く染まった白い肌が、呼吸とともにゆっくりと上下に揺れていく。
「祐一さん、ダメです。もう…」
 ぶるっと、栞が身を震わせた。
「んっ……」
 ふうっという、口から漏れる吐息とともに、栞が艶めかしく体を揺らした。
 少し上気した、それでもまだ抜けるように白い肌が、染み出した汗に濡れている。
 それは、窓の外から見える明かり…夜景のかすかな光をうけて、きらきらと輝いていた。
「あっ、ああっ…」
 何かに耐えるような声とともに、栞の細い指がきゅっとシーツを掴んだ。
 白い指が、いっそう白く見えるほど、その指に力が入っていく。
「祐一さん、祐一さん、祐一さんっ…」
 うわごとのように、栞が俺の名を呼ぶ。
 目をつぶったまま、何かを求め続ける。
 そんな栞の声を聞きながら。
 暗闇の中に浮かび上がる、白い裸身を全身で感じながら。
「…栞っ…」
 名を呼び、指を絡めていく。
 最後の瞬間まで、栞は、俺を柔らかく受け止めてくれた。
「…あぁっ……」
 最後の瞬間、それまでとは違う声とともに、栞の反り返った背が、シーツの上にゆっくりと
落ちた。




 かすかな光が、窓の外から俺達の体を照らしていた。
 上体を起こした栞が、その体を寄せてくる。
 冷えた部屋の中で、肌が触れたところだけ確かなぬくもりがあった。
「どうした…?」
 光の中にぼんやりと浮かぶ横顔が、妙に哀しそうに見えて、俺はそう問いかけていた。
「物語の中のお話なら、きっとみんなが幸せになれるんでしょうね」
 ぽつりと、栞が口を開いた。
「きっと、私の病気を治すために使われた願い、他のことにも使えましたよね」
 どきりとするほど、冷たい響き。
 抑揚もないまま、栞は言葉を続けていった。
「願いを持っていた誰かは、その願いを成就できたんでしょうか」
 か細く聞こえる声。
 それはまるで、自分を責めるように弱々しく聞こえた。
「願って、願って…。やっと叶えることができるだけの力を得たときには、その願いを別の
ことに使おうと思って…それで、幸せになれたんでしょうか」
 すがりつくような瞳が俺を見る。
 俺は黙ったまま、栞の髪に軽く触れた。
「いま、私は本当に幸せです。でも…」
 泣きそうな声。
「私だけが幸せになってしまって、申し訳ないです」
「幸せになったのは、栞だけじゃ…ないさ」
 俺の言葉に、栞が顔を上げた。
 ゆっくりと腕を上げて、俺は自分の顔を指さした。
「まず、俺」
「真顔で、恥ずかしいこと…言わないでください」
 少しだけのぞく、笑顔。
 照れたような、くすぐったそうな声を栞が上げる。
「まあそれは冗談としてもだ」
「…冗談なんですか」
 栞が、拗ねたふりして頬をふくらます。
「いや、本当だ。悪い、茶々入れて」
 それを軽く流して、俺は言葉を続けた。
「あと、香里や、栞の両親や…クラスの友達。大勢の人が、栞が元気になったことを喜んで
くれているはずだろ」
「…はい」
 俺の言葉をかみしめるかのように、ゆっくりとうなずく。
「願いを叶えてくれた誰かも、栞が元気になったのを見て、きっと喜んでいると思う」
 お人好しだからな、あいつは。
 相変わらず背中の羽をパタパタさせながら、笑顔でいるに違いない。
 そう、まるで…天使みたいに。
「ありがとう…あゆさん」
 最後の言葉は、確信も持てないまま。
 小さく呟かれたその名前は、闇の中へ溶けるように消えていった。
 俺は、あえてその名を口にしようとはせずに、泣きそうな表情をしている栞の頭に、ぽんと
手をのせる。
「きっと、喜んでるさ」
「…そう…ですね」
 栞の頭を、きゅっと抱え込む。
 胸に、冷たい感触があった。
 肌を伝って、それは下へと落ちていき、シーツに染み込んで消える。
 次から次へと、それは俺の肌を流れていった。
 栞は、ずっと泣いていたのだ。
 笑っているときも、きっと心のどこかで。
 笑顔を見たときに、わずかに感じていた違和感の理由。
 自分を責める気持ちを心に秘めながら、俺のために笑ってくれていたのだろう。
 そんな栞の体を、かき抱く。
 壊れてしまいそうなきゃしゃな心を、つなぎ止めるようにして。
 泣いている栞の体を、俺はずっと抱きしめていた。




 そして、穏やかな時は静かに移ろいでいく。
 栞と過ごす日々は、少しずつ暖かくなっていく気候と共に、確実にすぎていった。
 なんでもない日常が、栞がいるだけでかけがえのないものに変わっていく。
 そんな日々だった。
 ――その、ある日。
 俺たちは、いつもと同じように、学校からの帰りに商店街を通っていた。
 喧噪に包まれる、土曜日の午後。
 隣を歩く栞が、慌てた様子で俺の服を掴んだ。
 ガラスの向こうにある画面を見つめたまま、固まったように動かなくなる。
 不審に思いながら、俺もそちらを見た。
 画面には、ワイドショーらしき番組が流れている。
『奇跡か…!? 7年間眠り続けた少女、目覚める』
 右下に、殴り書きしたような書体で書き込まれた文字。
「栞、これがどうかした…」
 その言葉は、途中で切れた。
 画面が切り替わり、古びた少女の写真が浮かび上がった。
 見覚えのある顔が、その写真の中で笑っている。
「あれは…」
 口から出かかった言葉が、声にならなかった。
 俺の回りで、じわりと風景が溶けていく。
「奇跡は…、ひとつだけじゃなかったんですね」
 弾む声。
 自分に言い聞かせるように、発せられたその言葉とともに…。
 潤んだ瞳で、栞が俺を見た。
 とびっきりの、笑顔を浮かべて。
「…そうだな。きっと、ご褒美をくれたんだよ」
「そう…ですよね」
 俺たちみんなに、半年も遅れたクリスマスプレゼントさ。
 馬鹿馬鹿しい連想に、苦笑しながら。
 嬉しさに浮かんだ涙に、自分自身戸惑いを感じる。
「あゆのやつ、俺たちに会った時、どんな顔するかな」
「きっと、喜んでくれますよ」
 歩みが早くなる。
 栞も、俺も。
「やっぱり、看護婦さん相手に『うぐぅ』とか言ってるんだろうな」
「わ。祐一さん失礼なこと言ってます」
 他愛もないやりとりに、二人して浮かれながら。
「たい焼き買っていった方がいいかな」
「この時期だと、探すの大変そうですね」
 それは、まるで決まっていたかのように、ごく当たり前に俺たちを動かしていく。
 俺は、確信していた。
 きっと、栞の笑顔も変えてくれるだろう。
 起きるはずのない奇跡が起きた後に、もう一つだけ訪れた奇跡が。

『奇跡でも起これば、何とかなりますよ』

 奇跡が起きれば、と。
 一つ目の願いは、あゆの願い。
 とびきりお人好しな、あいつが心から願ったこと。

『…でも』

 奇跡が起きれば、と。
 二つ目の願いは、俺たちの願い。
 そんなお人好しに、会いたいと願ったこと。

『起きないから、奇跡って言うんですよ』

 でも、いつでも奇跡は、俺たちのすぐそばで起きていた。
 栞と出会って、いまこうして一緒にいられる。
 あゆと出会って、あゆに助けられて、そして…。
 また、あゆと出会えることが。
 それこそが、本当の願いなのだから。




《終》






















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