chapter_3 うすあずき色の既視感                < 松原葵・一人称 >

                 ∴

 次は、その日の午後の最後、音楽の授業。
 視聴覚教室で、昔のミュージカル映画の鑑賞です。休み時間に支度をして、
友達二人と一緒に教室を出ます。
 平行に並んで建っている二つの校舎、お向かいの廊下の窓に、ついつい目が
いってしまいます。だって、あちらは上級生の教室。
 …あっ、いた。見つけた。やっぱりね。
 窓のワクに肘ついて、ツマンナソーに中庭の噴水眺めてる、綾香センパイ。
 声掛けようかな、どうしようかな。呼びかけるにはちょっと遠いかな、大声
はり上げて、中庭にいる人の注目とか浴びちゃったら、ヤダな。
 あっちもこっち、気が付いてくれないかな、見つけてくれないかな…って。
都合のイイコト思ってたら、フッと。
 綾香センパイ、下を見てたおカオ、上げて。こちらを見て、ニッコリ。
「やっほーっ! あっおいーっ! ゲーンキっかなーっ!」
 バタバタバタって、手を振ってくれました。
「………」
 嬉しいやら、恥ずかしいやら。困ってしまいます。
「は、はーい、元気ですよー」
 お返事は小さな声で。ふるふるふる、手のひらだけを振って。
 うーん、とっても控えめになってしまった。ゴメンナサイ、綾香センパイ。
 …だって、だって、だって。ほら、中庭の歩いてるヒトたち、綾香センパイ
の声に、何人もこっちを見上げてます。うわー、やだなー。
 今の私、きっと、カオ、真っ赤っか。リンゴみたく。
 慌てて窓のトコ、離れちゃいます。遠目にセンパイ、ヘンな顔したような気
が…。誤解されたらヤだけど、だけど…う〜ん。
「あの綾香センパイに手を振って貰えるなんて、ねー」
「うんうんっ! 葵ちゃん、うらやましーなー」
「えっ、そ、それはだって、ほら、私、倶楽部の後輩なんだし…」
 内心ではあたふた。ぱにっくぱにっく。でも、気が付かれなかったみたい。
「んー、まー、そーだねー、あの倶楽部は、私たちには…」
「敷居が高い?」
「どころの問題じゃないと思う。…けど、そんなトコだねー、うん」
「やっぱり葵ちゃん、凄いよー」
「ううん、そんなコトないよ。私、ずっと空手やってたから。みんなだって、
華道とか、茶道とか、あと、はいく…俳諧だっけ、そっちの方が…」
「ま、同じコトなのかも、ねー。それをやってるか、やってないか」
「そっかなー? んでもやっぱり葵ちゃんってばスゴイよぉ。アタシだったら…」

 みんな、いいひと。優しい子たち。とても大切な友達。
 …なのに私ってば。本当は、ちょっぴり、優越感。
 だから、同じくらいに自己嫌悪。

                 ∴

 見たことがある映画。
 きれいな歌声と、広い風景。ちょっと悲しくて、でも、ちゃんとハッピーエ
ンド。
 大好きなんだけど…だけど、なんだか、ウトウトしちゃいました。
 少し、疲れているのかも知れません。このところ、倶楽部活動、自分でもヨ
シって思えるくらい頑張っているから。大会の予選が近いんです。
 綾香センパイに追いつく、それは大きな目標。
 あのヒトの隣というポジションに、気後れせずに立っている私。…今はまだ、
夢。
 でも…いつかは。

 かといって、居眠りをしちゃあ、いけませんよね。

 ふっと目が覚めたのは、みんなが視聴覚教室を出ていく時のざわめきから。
 映画の為に、カーテン引いて、電気を消して、お喋りを止めて。
 私にとっては一瞬前まで、ウトウトするのに心地よい闇が、教室を満たして
いたのだけれど。
 それも、すっかりどこかへ行っちゃって。今はオレンジ色の午後。思わずぼ
んやりしてしまいました。

 クラスのみんなに遅れて、ひとり、教室へと急ぎます。私以外はさっさと、
階段を下りていってしまいました。
 音楽の授業が早めに終わったせいで、廊下には人も少なくて。
 …と。
 向かいの校舎との架け橋になっている渡り廊下への、T字路のトコで。
 …なんとなく、そっちを向いて。ぴたっと目が合いました。その先に佇んで
いた綾香センパイと。
 センパイは体操服。やっぱり、授業が早く終わったのでしょうか。
「あ…」
 私が何か言うよりも早く。ツカツカツカッと歩いてきて、ニッコリと意味深
に、意地悪く笑って。
 私のアタマをコツン!
「きゃっ!」
「アオイく〜ん? さっきのアレは、な〜にかな〜?」
「えっ」
「私が挨拶してるのに、そそくさと退いたわね」
「えと、あっ、だって、だって…」
「…私に声を掛けられるのが、そんなにイヤかい」
 センパイの眼、笑ってる? ううん、違う、笑ってるようでジツは真剣。
「ねえ、葵。キライになったらキライって、スパッと言っちゃってね。ズルズ
ル引っ張るのが一番キライ」
 私は慌てて否定する。
「え? ちょっとちょっと、綾香センパイ、何ワケワカンナイコト言ってんで
すかっ。…だって私、みんなのチューモク浴びちゃって、すっごく恥ずかしか
ったから」
「…そんだけ?」
「そーですよ? 他に何か?」
 恐かったカオが、ヘロヘロッと崩れる。ちょっぴりあたふた、てれてれっと、
つくろい笑顔。センパイにしては珍しい表情。
「いや、ほら、昨日しごきすぎちゃったかなぁ…って、ね」
 昨日? 昨日の倶楽部? …あ、アレ?
「アオイの腕んトコ、かなりおっきいアザ、作っちゃったでしょ。だから…そ
の…嫌われちゃったかなぁ…なーんてね、あはは」
 だってアレは、私の受け方が甘かったから…。でも、今朝にはもう、色もだ
いぶ薄くなってたし。
 たしかに、アザ作っちゃった直後は、パッと見、ひどそうだったかも。
 何度も平気だって言ったのに…。センパイったら、あんなの、ずっと気にし
てたの?
「…らしくないわぁ、私としたことが」
 反省とばかりに、自分のアタマを一撃、がつんっ!
 …う、今の音ってば。けっこう痛かったんじゃないかなぁ。ほら綾香センパ
イ、ギュッと目を瞑ってる。目尻にはキラリと涙。
「イヤハヤ、チョイとしたゴカイってヤツよね。アオイくん、ごみーんねっ」
 目をシパシパさせながら。ペロッと舌を出してみせる。
 茶化して見せてるけど、ホントは、本気で、心配してた? 私に避けられち
ゃうコト。嫌われてしまうコト。
 どーなんだろう、分かんないけど…そーだったら、とっても嬉しい。

 チャイムの鳴る数瞬の前。
 校舎から、奇跡のように、人の気配が絶える。
 渡り廊下には誰もいない。私とセンパイの、二人だけ。

 私は目を閉じて。
 殆ど同時、唇に、唇が、押し当てられる。舌の先に、綾香センパイの柔らか
い舌が触れる。
 唾液が、つうっと流れてきた。
「………?」
 なんでだろ、舌がぴりぴり、すーすーする。

 授業の終わりを知らせるチャイムが、ささやかに鳴り響く。あちこちに、人
の気配が戻ってくる。
 慌てて。お互いに半歩、退いてしまいました。
 カオ見合わせて。てれてれてれ。

「はらはら、ほれほれ」
 すぼめてチロッと出してみせた舌の上に。透きとおった宝石、平たい氷砂糖
みたいな、溶けかけた飴、ひとつぶ。
 あれはたぶん薄荷(ハッカ)。私はあんまり得意じゃない。
「はほひふふほ、はへふ?」
 葵クンも、舐める? …って、言ったんだと思うけど。
 その魂胆は見え見え。口移しにキャンディあげましょって。もう一度、キス
するつもりでしょ?
 …ほーら、目が笑ってる。やっぱりそうみたい。
 私は首を横に振る。駄目ですよ、もぅ。休み時間になっちゃったから、みん
なに見られちゃいます。
「甘いだけのお子様のキスと違って。冷たいキス。どぉ、大人の味でしょ?」
 舐めかけの飴を口の中におさめて、センパイってばそんなコトを言う。…あ
のぉ、そーゆーコトは声を落とした方が。誰かに聞こえちゃいますよぉ。
 それに。
 くちづけの甘い辛い、冷たい熱いってのは、そーゆーモンじゃないと思いま
す。だって今のは、薄荷で冷たかったけれど。熱いキスでしょう?
 でも、それを言う代わりに。
「学校でお菓子は、駄目なんですよ」
「あらら。カタいコト言わないの。もー、アオイくんてば、マジメ子ちゃんねー」
「なんなんですか、それ」
「決まってるでしょ、かあいいってコトよん!」
 くしゃくしゃくしゃっ。私のアタマ、短い髪を荒っぽく、でも、どこか、そ
うじゃなく。
 かきまぜてくれました。
 嬉しいけど、気持ちいーけど。でも、でもぉ…、あーん、ねぐせみたいにな
っちゃう〜。

                 ∴

 ある日。
 綾香センパイと別れて。一人きりの帰り道。
 あのカドを曲がれば、自分の家まで、もう少し。自然自然と、足の運びが早
まって。
 ひょいっ、と…。
「!」
 どんっ! 目からお星さま。それでなきゃ、火花、ちかちか。
「きゃっ!」
「きゃうっ!」
 一瞬、何が起こったのか、判りませんでした。
 私、ヨロヨロッとよろめいて。倒れて、アスファルトの上に尻餅をついてし
まいました。
 あー、うー、格闘技やってるって言うのに、情けない。マトモな受け身にな
ってないよー。…お尻が痛ひ。それからオデコも、何故だかひりひり。
「あいたたたた…」
 目の前に。私と似たような年格好の、女の子がひとり。同じように、尻餅を
ついてしまって。前髪をかき上げて、両手でオデコを押さえてます。痛みと驚
きにしかめた顔、三つ編みがふるふる揺れてます。
 …そっか。そのカドを曲がった時に、ちょうどゴツン、と。ぶつかっちゃっ
たんだ、私たち。
「あ…」
 スカートと衿が深緋、あとは薄紅を幽かに溶かしたよな白の。トータルイメ
ージ、うすあずき色のセーラー服。それは、もしかしたら私が通っていたかも
知れない、近所の学校の制服です。
「あっちゃー。おいおい、あかりぃ。はしゃぐからだぞっ」
 男の子の声。走ってくる足音。
「おい、ダイジョブか? ほら、掴まれよ」
 差し延べられた手。私の手をギュッと握ると、力強く引っ張り起こしてくれ
ました。どうってこと無いよーなコトでも、相手が男の子だと、なんか照れて
しまいます。
「なぁ、ほら…、スカートんトコ、汚れちまってる。はたいといた方がいいぜ」
 えっ? あ、お尻のところ。慌ててパンパンッと、はたき落として。
 そのあいだに男の子、私と衝突しちゃった女の子を助け起こしました。
「おいおい、オメーは。みんなで行く遊園地がそんなにウレシーかよ? …っ
たく、バカだな。ほら、あの子にチャンと謝れよ」
「う、うん。…あのぉ、ご免なさい。大丈夫ですか?」
 ペコッと丁寧に謝られてしまって。わ、わ、わ、どーしよ。運が悪かっただ
けで、どっちが悪いってモンでもないと思う。
「あ、いえいえ、そんな、こちらこそ。御免なさい。私だって、前方不注意で
すから」
「そーだなー。ま、曲がり角の出会い頭じゃ、仕方ねーっちゃあ仕方ねーんだ
けどな。…あー、そいじゃキミタチ、二人とも今後は気を付けるよーに」
「ヒロユキちゃんたら、威張ってる」
「そりゃそーだ、オレがぶつかったわけじゃねーもん。えっへん」
「えー? だって、前に二回も先輩とぶつかったのは…」
「おいおい、チョイ待ち。ありゃあナシだ、不可抗力だ、天の配剤だ、ありが
ちイベントだ、必然的出会いだ、赤い糸のお導きだぁ…っと」
「どさくさに紛れて、もぅ…」
「とにかく、だ。状況がまるで違うだろ。お前こそ何度目だよ。保科の時なん
てのは、それこそ一方的な前方不注意だったろ」
「それは、だって…」
 二人のやりとりが楽しそうなので。ついクスクスッと笑ってしまって。
「あーあー、ほれみろ。深窓の令嬢に笑われてしまったではないか」
 え? 私が?
「ヤダ、深窓の令嬢だなんて…私、全然、そんなんじゃないです」
「あ、悪い。別にヘンな意味で言ったんじゃなくってさ。やっぱりその制服、
お嬢様って雰囲気だろ。西音寺だもんな」
 馬子にも衣装ってコトかな。…ふふっ、このヒト。私がやってる倶楽部のこ
と知ったら、目を回すかも。そう考えると、なんだか面白い。
「…んじゃあ、ま。ごめんな。…おいこら、あかり。とっとと行くぞ」
「うんっ」
「んー、だからな、雨天中止だぞ。せいぜい祈っとけ」
「それじゃこれから、テルテル坊主、作ろ?」
「ぱすぱす、ガキじゃあるまいし。オメーに任せるよ…」
 楽しそうにお喋りしながら、行ってしまう二人。何故だか、私はぼんやり四
つ角に立って、その後ろ姿を見送ってました。
「……」
 えーっと…、これは…。うーん…。
 何だろう、この気持ち。何かを忘れているような。大切なものを落としてし
まったような。ハートのジグソー、欠片(カケラ)が1ピース、机の上から転
げたような。
 ふわっと、めまい。さらさらと色褪せてく景色。遠退いて、また、戻ってく
る世界。
 三十メートルほども先でしょうか。ふと。
 あの男の子が、立ち止まって。こちらを振り返りました。
 突っ立っている私に、おやっと、不思議そうなカオ。
 目と目があって。私は慌てて、取って付けたようなお辞儀をして。彼はそれ
で得心がいったようです。
「気を付けてなっ!」
 手を振ってくれました。

 てくてくと歩きながら。
 家を目の前にして。
「あれっ…」
 自分でもビックリしました。ポロッと、涙が一滴(ひとしずく)、こぼれて
落ちたから。何の前触れもなく。
 とても不思議。悲しくも、なんともないのに。
 さっきの、あの子とオデコをゴッツンコしたのは、確かにすごく痛かったの
だけれど。なにも泣くほどじゃありません。
 首を傾げてしまいます。
「…でも」

 もしかしたら。
 もしも、選んでいたならば、着ていたかも知れない。あの子の、うすあずき
色の制服。
 アレのせい?

 ただ、そんなコトでさえ、時には私の心を感傷的にするのだなぁと。ミョウ
に感心してしまいました。

 明日、綾香センパイに話してあげたいことが、また一つ増えました。


...END

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